深夜の雑談

生きる意味を探す旅路-30歳時点のまとめ-

どうも、インターネット雑談マン@netzatsudanmanです。

「ブログネタどうしよっかなー」と悩んでいた時に、自分の人生論みたいなものを書き始めた結果、それを書くのが面白くなってしまって人生論だらけになって収拾がつかなくなってしまいました。書くのは面白いんですがキリがないので、いったんまとめ記事を書いて落ち着こうと思います。

ブログは読者目線で読者の役に立つように書くべし!なんてブログの先輩たちの素晴らしい教えもありますが、こりゃー完全に自分のためだなぁ。

30歳の中小企業の独身リーマンがどんなことを日々考えているのか知りたい若者、同世代の方に一応オススメということで。一人じゃ寂しいから誰か共感してくれないかしら。。

目次

小手先のライフハックは巷に溢れかえっている

100年前の人達なら、相当な時間をかけて考えつくか、お偉い先生に教えを請いに行かなければ手に入らなかった考え方も、インターネットが発達した現代ではすぐに入手できます。(それを使いこなせるかどうかはまた別だけど)

僕のブログの記事にもありますが、例えば「怒らない方法」とか「嫌いなヤツとの付き合い方」とかですね。

それはそれで便利だし、それらがすぐに手の入る時代に生まれることができてラッキーだなと思っているのですが、どんなにそれを学んで生きやすくなったところで、心の奥底にこびりついているものがあります。

そう、「生きる意味」。これに関してはどんなに「愛のためだよ」とか「次の世代へのバトンを~」とか言われても納得ができない。だってその前提状態の価値を見出だせていないから。

無理矢理納得するために、こんな記事も書いてます↓

生きている意味や価値に苦しむ人に、僕なりの答えを共有

小手先の考え方としてはこちらの記事↓

生き方や価値観が定まらないなら「許せないこと」がヒントになる。

生きる意味の前提、この世界の価値。

生きる意味を見つけようとしても、どうしてもこの壁にぶち当たってしまう↓

ストレスを消す最強の方法は幸福も手放す超危険な方法だった!

最小単位で原子だか素粒子だか言うものが、くっついたり離れたりしているのがこの世界の正体なのだとしたら、そこに意味や価値なんてあるのだろうか。

所詮は自分の脳も感情も宇宙そのものも、極小のなにかが反応しているだけのことであって、尊いと思っていた正義も愛も、ただこの社会を構築するためだけの方便なのではないか。

生きる意味以前に、この世界に価値があるのか?

ひょっとしたら虚無かもしれないこの世界で、どうして愛を信じられるのか、どうして意味を見出だせるのか。

ここを越えることができていません。

人生を無意味と思ってる人こそ本当はそれを認めたくないのかも。

↑この記事では、自分が「この世界が虚無とは認めたくねえよ!」と思っていることだけは理解したんですが、その先へは進んでいない・・・。

世界に価値があるとして、それを自分が感じられるか?

もしかしたら、僕だけが不安になっているだけで、世の中の人々はすでにこの世界の価値を知っているのかもしれない。一般人にはわからなくても、高名な宗教家や科学者ならわかるのかもしれない。人類の現段階の科学や哲学ではたどり着けなくても、いつかはそこに達するのかも知れない。

でも、それを僕自身が感じられなかったら何の意味もない。考えれば考えるほど、そこに自分が辿り着くのは無理だと思ってしまう。

結局、僕は一神教的なとてつもない最強の神様が現れて、「世界の価値はこれだよ。だからあなたはこうしたらいいよ」と教えてくれるのを願っているだけなのか。

そしてそれを教えてもらえるなんてことは、きっと無い。

だとすれば、「世界の価値」なんてものを探しても無駄ではないか。価値観の損切りをするべきではないか。でも見て見ぬふりをしたって、世界が虚無であるという考えは消えない。

虚無でしかない世界で喜ぼうが悲しもうが、何の意味もないじゃないか(以下ループ)

・・・ってのが現状。ここで止まってます。

一応、自分なりに生きる意味を探すアプローチ方法も考えてみました。

【脱ニヒリズム】生きる意味を見つける為のアプローチ※保険付き

でも、諦めたくはないんだよな・・・。

意味探しは人生の課題からの逃避ではないか?

考えたくはないけれど、もしかすると僕が世界の価値なんて壮大なスケールのものを探しているのは、ただの言い訳なんじゃないかという不安。

ただただ毎日が不満だから、それを世界が虚無なせいにしていないか。ただ単に努力をしたくないから「虚無なら何も意味ねーからやりませーん」と言っているだけなのではないか。

考えどおり世界が虚無だったとして、虚無の中に価値を見つけて生きていくべきではないか?

友情や愛情、夢や希望という概念を人が生み出せたことが奇跡なんじゃないか?そういうものが望みのとおりに手に入らない絶望を誤魔化していないか?

「幸せな家庭」や「やりがいのある仕事」なんていう普通の幸福に届かない自分への慰めではないか?届かないから、「そんなものはないんだ」と言い聞かせていないか?

「明日から本気出す」と同じではないか?

と、そんなこともちょっと心配な今日このごろです。

自分ほど簡単に騙せる相手はいない。自分の心を守る為ならいくらでも嘘がつける。ここは本当にしっかり見極めないといけないところですね。。

まとめ:せめて穏やかでありたい

世界の価値にしても自分の生きる意味にしても、現段階は進展がないです。今、僕はたまたま健全な精神状態で「趣味の1つ」として意味を探せていますが、これがまともでない精神状態だったら・・・たぶんひどい結果になる。それだけは避けなければならない。

映画のキャラクターが苦しんでいて、どんなに臨場感があるとしても、それは観客には直接の影響がないのと同じように、「意味を探す自分」は常に分離させておかないといけないなと想います。

なんかやっぱり仏教よりに進んでいっちゃう気がするなぁ。最近このブログで繰り返している通り、仏教の考え方って壮大過ぎて、「有」も「無」も一緒みたいな、「虚無?へえ?それで?」みたいな態度で接してくる。仏教思想を学ぶってのはやっぱりアリかなぁ。

でも悔しいですよね。僕はまだ哲学は入門書しか読んでませんが、西洋哲学の人達は、必死になって言葉で真理を掴もうと何千年も戦い続けているのに。

僕だけがそこで「わりぃ!もう自分自身も手放すわ!イチぬーけたっ!」と言うのは、次の世代に託した哲学者たちへの裏切りじゃないか。

まだ僕だって戦いたいんだけどなぁ。

まとめの章がまた愚痴っぽくなってきたので、ほんとにまとめ↓

・意味探しは趣味として楽しむ

・虚無のせいにして人生の課題から逃げない

・仏教をかじる

とりえあえず現時点ではそんな感じです。

誰か言葉で理解できる真理にたどり着いたらこっそり教えてください。

以上。