どうも、インターネット雑談マン@netzatsudanmanです。
「思考停止」という言葉自体が、なんとなくダメっぽい要素を含んでいるような気がしていました。考えるべきときに考えることをしないで、ただ惰性で生きていく。
たしかにそれは問題なのですが、だからといって常に思考していなければいけないのか?必要のない時にも思考することでダメージを受けていないか?今回はそんな話を記事にしていきます。
時と場合によっては思考は止めるべき
凄くダルいときに、「あ~~~ダルいな」と誰もが思考すると思うのですが、こんなことを考えたところで何も良くはならないですよね。
むしろ自分の「ダルい」という思考によって更にダルさが倍増している。「思考は現実化する」なんて本や、日本には「言霊」なんて言葉もありますが、本当は0.1程度だったネガティブを自分が思考することで100にしてしまっていないでしょうか。
僕は今まで「考えることによって何事も解決する、考えてこそ人間だ」と、思って生きてきたのですが、どうやらそれは間違いだったみたいです。繰り返し言葉にするって、なんだか忘却曲線に合わせて暗記しているみたいですよね。すぐに忘れられるはずだったネガティブを自分で繰り返し再生してわざわざ強くするのはもうヤメにします。
勝手に湧き上がってくる思考は自分ではない
以前からこのブログではこんな話を繰り返しているような気がしますが、いわゆる「自我」と呼ばれるようなものは、本当は自分ではないのだと思います。自我を統制するのが自分。勝手に湧き上がってくるものをそのまま使っているんじゃ動物と変わらない。言語として「お腹がすいた」と思えるから、なんとなく人間ぶれているだけ。
こうなったら自我が勝手に騒がないように、数字でも数えて誤魔化すしかないですね。なんか仏教っぽくなってきたぞ。たしか仏教っぽい話では、自分の一挙一動を実況しろなんて言いますよね。「足をあげた、足をおろした」「手をあげた、手をおろした」
たしかにこれを繰り返していれば、思考が湧き上がってくる暇もない。でも疲れたときに「疲れている」なんて実況するのかな?きっとそれは違うと思うので、疲れている時は疲れているときで、肉体の動きを観察するのかな?いや、疲れていても何かしら動作はしているから、そっちを実況するのかもしれません。「息を吸う、息を吐く」みたいな。
脳の刺激欲に従ったら負け
今、国民の6割以上が仏教の国にいるので、たまにかぶれて瞑想なんかしてみたりするのですが、何も考えないというのはなかなか難しい。脳というのは常に刺激を求めているみたいです。
刺激を求めているというのは、別に性的な気持ちよさとかに限定されるものではなくて、どんな思考だろうが刺激になります。喜怒哀楽、今日の出来事、明日の予定、何も考えない退屈から逃れようと、脳は様々な思考をしようと動いてきます。
そこで楽しい刺激が生まれてくるならまだマシで、俺のようなやつは日常で不安や心配のほうが、あきらかに楽しいより多いので、ネガティブなことのほうが生み出しやすい。脳は手っ取り早く得られる刺激を欲しがるので、ネガティブだらけになる。
それを自分が心から望むことだと勘違いした結果、負のスパイラルは止まらない。破滅一直線。自我の野郎、俺の中にいるくせに完全に俺の敵じゃないか!
でも、何も考えなかったらダメじゃない?
そりゃあ健全に過去の出来事を振り返るとか、未来の楽しい計画を立てる時とかは、思考したほうが良いと思います。そこで何も考えなかったら惰性で生きてるだけになってしまうので。
人生とは選択の連続なので、選択する時は正しく思考をしなければいけない。湧き上がってきたネガティブ自我に従うことを選ぶか、理性で健全な暮らしをすることを選ぶか。
仏教で言う、「今この瞬間を生きる」とかってのは、実況中継で自我を抑え込む、今目の前にある選択肢に真剣に向かい合うってことなのかな。
おわり
ネガティブな思考の再生を繰り返して、自分で破滅に向かうのはヤメようっていう話を書きたかったのですが、いつのまにか仏教の教えが参考になりそうだなという話になっていました。くそー!俺も悟りたいぜ!
今回の記事を書くにあたって自分を振り返ってわかったことは、俺が悶々と思考している時なんてのは、自分が考えることのできる人間だと、自分に対して「俺は頭良いんだぜ」と見栄をはっている時な気がしてきました。
完全に思考に酔っ払っている・・・恥ずかしいからそういうのやめよ・・・。
また一つ反省したところで、本日はここまで。
以上。